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を中心に書いています(でも雑感とかネタ話とかも、たくさん書いてるのは秘密)。
今回は、私のバレーボール歴について語ります。まずは高校時代について。
野球を諦め、高校からバレー部に
中学まで野球部でしたが、全く芽が出ず試合にも出れませんでした。スポーツ、特に球技は好きだったので、高校に入って男子バレーボール部に入部します。理由は簡単、部員が少なくて即レギュラーになれそうだったから。
その時の男子バレー部は、3年1人、2年1人で計2人。私の代で部員が入らなければ廃部、という状況でした。結果、1年生が8人入りバレー部は存続。しかし8人も入ったことで私の目論見「即レギュラー」は外れ、レギュラーになるまでに1年かかることになります。
2年からレギュラー、副部長に
8人だった同学年のバレー部員。しかし2人は退部して先輩1人と同学年6人になります。1年目はバレー経験のある顧問の先生がいましたが、その先生は退任となり、2年からは指導者がいない状態になりました。
今考えると、これが私の転機だった気がします。
指導者がいなくなったことで、「自分たちで勝つための戦略を考え、自分たちで練習を考える」ということを自然とするようになりました。
2年の春に先輩が引退すると、部員は6人に。そして、私は男子バレー部の副部長になります。部長は頭のキレるタイプでは無かったので、実質的に練習は私が主導してやっていました。(と私は自負しているけど、当時の部員達がどう思っていたかは不明)
小地区大会で3位に
高校の最大の実績は、近隣の6〜7校くらいで開催される小規模な大会(小地区大会と呼びます)で3位になったこと。
大きな大会では1回勝っても、2回戦でシード高にボロクソにやられます。まぁ、弱小校です。
小地区大会では3〜4校は中学からバレーをやっていた部員が多い高校なので、毎回その高校が1位〜3位を独占していました。高校からバレーを始めた私たちは蚊帳の外。
ですが、この大会ではメンバーの調子が良く、相手のミスも相まって勝ってしまいました。この時の歓喜は忘れられません。このとき初めてマネージャーとハイタッチしました(あ、書き忘れてましたが、女子マネージャーが1人いました)。
今思うと、自分にも青春時代があったんだなぁ。
1人で朝練したことも
バレーにハマりだしたのは、やはり自主的に練習し出してからだと思います。おそらく指導者がいたら上手くはなっていただろうけど、今ほど好きにはなって無かったように思います。
とはいえ、部員とはちょっと温度差があったかもしれません。
私は朝も練習したかったのですが、部員はそうでも無かったようです。そのため、1人で朝練をする日もありました。
重いポールを1人で運び、1人でネットを張って、30分間、ひたすらジャンプサーブの練習。そして1人で片付け。
実は、朝の体育館確保の目的もあったりしましたが、いつの間にか朝の体育館はサッカー部のものとなっていました。よく頑張ったよ、高校生の私。
最後の大会も2回戦で終戦
3年になり、顧問の先生の呼び掛けもあって、入学してきた1年生が7人ほどバレー部に入部しました(ちなみに、2年はゼロ)。
顧問の先生はバレー素人だけど、他校と練習試合を組んでくれたり、バレー部への勧誘をしてくれていたり、とても感謝しています。このへん、ハイキュー‼︎とも設定がかぶるので、共感するんですよね。
そして最後の大会。
1回戦は、体育の延長のような高校だったのでアッサリ突破。そして2回戦。
相手は県ベスト8くらいの実力の高校でした。練習から圧倒されて、明らかに体格も体力も技術に差がある相手です。でも3年間(正確には2年ちょっとだけど)頑張ってきたアタックだけは通用するだろうという自信がありました。
てすが…
このとき初めて、ブロックは「壁」なのだという意識を持ちました。全く打つところが無い。試合中に絶望(大げさ)したのも初めてでした。
そんなわけでいいところ無く、アッサリと負けました。
帰りのバスで、もうバレーはしないと
自分なりに頑張ってきた高校の部活。結果が出たとは言えないけど、やり切った感はありました。6人+マネージャーだけで頑張ってきたという自負もあるし、このメンバー以外でバレーはやりたく無いという思いも湧いてきました。
青春だね。
そんなわけで、高校卒業してからまたバレーを始めるまでは7年間のブランクが空きました。
高校時代のお話はここまで。
社会人以降はこちら。
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