印西市に住んで3年以上が経ちました。印西に住み始めて(正確には住み始める前)から、「龍、多くね!?」と思っていました。いたるところに龍のオブジェ・モニュメントががあるのです。この理由について調べているうちに、印西市の歴史に触れることになりました。
ということで始めます。印西の歴史に触れるシリーズ第3弾 印西の龍の謎を追う
第1弾と第2弾はこちらです。
印西には龍が多い
印西市には龍が多いなぁ、と感じたことはありませんか?
龍のオブジェが多い#印西あるある
— ジミー@わにっぽい人 (@wanibiyori) 2016年3月24日
近所を散歩しただけでも、これだけ龍が見つかります。
草深(そうふけ)第1公園
おそらく以前は噴水になっていただろう場所。以前は龍から水が出ていたものと思われます。
これは水路になっていたのかな?地面から龍が顔を覗かせています。
草深(そうふけ)第2公園
草深第2公園の池にある龍。
こちらは橋に描かれている模様。
ほかにも水飲み場の石にも龍が掘られています。
竜腹寺
これは北総線の印西牧の原駅と印旛日本医大駅の間にある橋にあるモニュメント。
この橋は竜腹寺という交差点にあります。
これ以外にも龍を見かけることが多々あります。どうやら印西は龍にまつわる何かがありそうですよね。
ということで図書館で調べてきました。借りてきた本がこちら。
- 『印西地方史よもやま話』 五十嵐行男著
- 『房総の伝承奇談』 杉谷徳蔵著
どちらも古い本なので、書店では手に入らないかもしれません。
読んで分かったのは、この地方に龍神降雨伝説という逸話があるということでした。
龍神降雨伝説
和銅2年(西暦709年)に、この土地に龍女の化身が現れたと言います。この龍女の化身は一夜のうちにお寺を建立しました。これが龍角時です。
天平3年(西暦731年)に、この地方は日照りが続いていました。農作物は実らず、農民たちは命絶え絶えで雨乞いをしました。そのときに現れたのが龍女です。龍は降雨を司ると生き物ですが、龍王はそれを禁じていました。しかし龍女は苦しんでいる農民を見てタブーとされる雨を降らせました。
雨によって農作物は生き返り、農民たちは生き延びることができます。しかし、タブーを犯し雨を降らせた龍女は、龍王の怒りを買いバラバラに引き裂かれました。
引き裂かれた頭部・腹部・尾はそれぞれ、龍閣寺・延命院・大寺に落ちました。龍が落ちたお寺は龍の部位に合わせて龍角寺・龍腹寺・龍尾寺と改名しました。
龍角寺・龍腹寺・龍尾寺の場所を見てみよう
伝説となったバラバラ龍が落ちたという、龍角寺・龍腹寺・龍尾寺の場所を確認しましょう。こんな位置関係になります。
☆のある地点がお寺です。そして、赤枠で囲まれている地点が印西市。
龍尾寺だけちょっと距離が離れています。龍腹寺から龍尾寺までは直線距離で約40km。関係ないですが、龍尾寺から南東に10kmくらいで九十九里浜です。
龍角寺
千葉県印旛郡栄町龍角寺239
龍角時は関東地方で最も古い寺院の一つとされています。
龍腹寺
千葉県印西市竜腹寺
住所は「竜」なんですが、お寺は「龍」です。なぜ違いが出たのは分かりませんが、地名はよく使うので簡略化した「竜」を使うようになった、と推察。
龍尾寺
千葉県匝瑳市大寺1856
なぜ龍が広まったのか
さて、龍が落ちたというのはあくまで伝説です。ドラゴンクエストです。なぜ龍が落ちたという伝説が広まってお寺や地名にまで影響を与えたのか。これについても「印西地方史よもやま話」で推理されています。(ロマンを求める人はこの先は読まないほうがいいかもしれません)
元は今昔物語
龍神降雨伝説は今昔物語の中に似たような話があります。今昔物語では4つに引き裂かれ、龍海寺・龍心寺・龍天寺・龍王寺になったとされているが、話としては全く同じである。
千葉氏の政治的策略説
鎌倉・室町時代房総の盟主千葉氏、千葉氏が地位を獲得するためにこの龍の伝説を広めました。
千葉氏は延命院(後の龍腹寺)に信仰が深かったそうですが、延命院はさほどの寺格がありませんでした。延命院の影響力と権威を広めるために龍伝説を持ち込み、龍の腹が延命院に落ちたこととし「龍腹寺」と改名しました。
これが「印西地方史よもやま話」の推理です。
つまり千葉市の政治的策略にて、龍が落ちたという伝説が広まったということですね。いつの時代も政治的な意図があるものです。
まとめ
個人的にスッキリしないのは、印西はなぜ龍を推しているのか、ということ。なぜ龍のオブジェを作るのか、ということ。印西と龍の繋がりは分かったのですが、その龍のオブジェで何を伝えたいのかということですね。
この辺りはもうちょっと文献を読んで歴史を学びつつ、オブジェのある公園で遊びながら継続して考えていきます。
以上、印西の歴史に触れるシリーズ第3弾『印西の龍の謎を追う』でした。