わにゴコロ

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文体の考察

calendar 2016-05-10

18歳で原田宗典さんのエッセイにハマり、20歳のときは村上春樹さんの作品をひたすら読む。22歳で伊坂幸太郎さんのミステリー小説を全網羅するまで読むことを止められ無かった。

そこから10年、作家単位で小説にハマることは無かった。が、32歳で中村文則さんの小説を読んだときに、小説の力を再認識した。

その後ブログを書くようになって、他の人のブログをよく見るようになった。好きなブログは更新がある度に欠かさず読んでいる。ハマっているのだ。

何にハマったのか。端的に言えば「文体」だ。その小説の文体に、そのブログの文体に魅せられたのだ。

では、ハマる文体とは何か。それは、「自分宛に書かれたか」だと思う。他人の方を見て語られても、頭には入ってこない。全力でスクロール、離脱。

自分も文章を書くようになった

30歳も半ばにして、私も文章を書くようになった。文章で何かを表現したいという欲求は10代の頃からあった。しかし、書かなかった。いや、書けなかった。

書こうとしても、書きたいことなどなかったのだ。

今では毎日何かしらの文章を書いている。それは、書きたいことがあるから、だ。物書きになりたいなら、まずは書きたいことがあるかどうかを自分に問うてみるといい。

宛先の人が理解できるように書く

ブログは誰でも読める。だからと言って誰でも読める文体は、無い。

誰宛に書くのか、誰にとっての文章なのか。これをハッキリさせると、自然と文体が決まってくる。

自分宛でもよい。備忘録とは自分宛だ。自分に宛てたメモが他人に役立つこともあるが、それは「自分が理解できる=他人が理解できる」ということ。

大事なのは、宛先の人が理解できるということである。

プログラミングにおける可読性

プログラミング言語の品質を図る指標に「可読性」がある。可読性とは、プログラミングコードが理解し易いかどうか、だ。初めて見た人が理解できるかどうか。

可読性の低いコードは、1年前に自分で作ったコードなのに理解できない、ということになる。

もっとも、プログラム自体は正しく動く。書いてある通りに動く。つまり、コンピューターにとって理解出来るかどうかと、人間が理解出来るかどうかは違う、ということ。

いくら上司にコードの可読性が低いと言われても、最終的に読むのはコンピューターならそれで良いと思う。ただ、実際にはコンピューターはプログラミング言語として読むのではなく、機械語(1か0の世界)なのだが。

誰に読んでもらうのか

中学生にオカタイ文章で思いを届けるのは難しいし、50歳の人にキャピキャピした文章を書いても相手にされない(もしくはキャピキャピした50歳しか読んでくれない)。

何も全員に読んでもらう必要はない。文章の批判をされても届く相手に届けばよい。届けたい人に届けたい思いを書く、それが文体となる。私はそう思うのである。

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